飽きる

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毎日外に出るのも憚られる生活は単調だ。家にいてもやりたくないことばかり、すぐ動画を見たりすることになる。しかし、デジタルではどうしても五感では感じられず、体験が総合的に残らない。楽しかった、何かしらためになったと思うにはどこかバランスが悪く、イビツなものとして記憶から排除されていく。

コロナ禍でできること。これを編み出すのがこれからをどう生きるかに関わってくる。不運や不幸を嘆いても何も起こらないとは頭ではわかるけれど、心はなかなか動かない。むずかしいものだ。こんな愚痴を書き溜めるためにわざわざ時間を確保していることになるのだろうか。

情熱とは自己に対する不満のことだと読んだ本に書いてあったが、情熱が起こらないのは、自分に不満がないからだろうか。いや、この退屈には不満がある。退屈はそれ自体、自分への不満だろう。それを自発的に解消するのが難しい。外からの圧力は必要なものだと思う。仕事とは、生きるためのものだったのだ。経済的にも、心のためにも。それをあえて捨てようとしていることに、何か前向きな意味があるのだろうか。

何か計画を立ててみようか。コロナでなければやりたいこと。この後の長い時間で、でも確実に身体的には衰えていく中、人生が近い将来終わるとしたら?明日死ぬと思って今日を生きるという人がよくいるが、つまりは今日の1日を後悔しない1日にするということだよね。

行き詰まって外に出てみる。蔦屋書店に席を見つけられず、同じ敷地内の別のカフェへ。おしゃべりをする人、仕事をしている人。スマホを忙しく叩いている人。それぞれ充実しているのだろうか?自分は、誰かに会っている時は楽しいと思うより、時間をなんとかしてやり過ごしているような気持ちになることが多い。終わったらどっと疲れるし。これもない自分を演じているせいなのだろうか。どうすればそれが充実した時間となるのだろうか。心からの善意なんてものは信じないとするなら、100%に気持ちが持っていけないことに悩む必要はないだろう。じゃ、何が必要なんだ?少しの労働、少しの孤独、少しの知識の更新

明日はまた仕事をするなら、何か実践してみても良いのではないか。半径3メートルを声が届く距離とするなら、今は仕事が一番近しい気がする。家も友達も近いようで遠い。身近な他人と言ったのは誰だった?