たまたま入ったカフェが居心地よかった

子供の病院の面会中に、目の前にあるベトナムサンドのお店でランチ。

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自分で作るとどうしてもこうならない。

暖かいバゲットと冷たいシャキシャキ野菜。

癖のあるレバーパテ。

これを甘酸っぱい味付けで絶妙にミックス。

ベトナムコーヒーの甘い練乳の味。

普段はほぼブラックしか飲まないせいか、味覚の冒険。

遠くに行けたような、多分現地で味わうよりも憧れをプラスして美味しく感じる。

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イートインスペース

イートインスペースの非日常的空間。

窓の外はバスが通る無味乾燥とした通りなのに、別世界にいるよう。

窓からの日光を遮るカーテンから透けてくる光

わずかの風で揺らぐ光が、異国のような世界を感じさせる。

 

こんな素敵な時間をありがとう

勝手に週休3日

祝日がない週に勝手に有休をとることに決めてから半年。

最初の頃は、ワクワクしてコロナ禍の中行ける場所を探してた。

半年もしてくると、ヘアサロンに行くとか、歯医者予約するとか

週末にやればいいものが増えてきた。

じゃあ週末は何やってる?って言うと

家事だな〜

1週間分の買い出しとか、コインランドリー行くとか

車の運転しないので、そう言うのを相手と合わせないといけないので

時間が主体的な計画を立てづらいんだよね。。。

いや、相手に合わせて計画立てるのが嫌で

立てないんだな。計画。

そもそも計画立てるのが嫌なのかもね

 

撮影クルーがいる公演を見ながらコーヒー。

ビール&フライドポテトにすればよかった。

平日の休みは、夜まで飲まないって誓いを立ててるからな。

多分これを破ると、グダグダの週末を1日増やすだけになっちゃうもんなー。

でも、週末のカフェって、混んでるしな。

悩ましい。

飽きる

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毎日外に出るのも憚られる生活は単調だ。家にいてもやりたくないことばかり、すぐ動画を見たりすることになる。しかし、デジタルではどうしても五感では感じられず、体験が総合的に残らない。楽しかった、何かしらためになったと思うにはどこかバランスが悪く、イビツなものとして記憶から排除されていく。

コロナ禍でできること。これを編み出すのがこれからをどう生きるかに関わってくる。不運や不幸を嘆いても何も起こらないとは頭ではわかるけれど、心はなかなか動かない。むずかしいものだ。こんな愚痴を書き溜めるためにわざわざ時間を確保していることになるのだろうか。

情熱とは自己に対する不満のことだと読んだ本に書いてあったが、情熱が起こらないのは、自分に不満がないからだろうか。いや、この退屈には不満がある。退屈はそれ自体、自分への不満だろう。それを自発的に解消するのが難しい。外からの圧力は必要なものだと思う。仕事とは、生きるためのものだったのだ。経済的にも、心のためにも。それをあえて捨てようとしていることに、何か前向きな意味があるのだろうか。

何か計画を立ててみようか。コロナでなければやりたいこと。この後の長い時間で、でも確実に身体的には衰えていく中、人生が近い将来終わるとしたら?明日死ぬと思って今日を生きるという人がよくいるが、つまりは今日の1日を後悔しない1日にするということだよね。

行き詰まって外に出てみる。蔦屋書店に席を見つけられず、同じ敷地内の別のカフェへ。おしゃべりをする人、仕事をしている人。スマホを忙しく叩いている人。それぞれ充実しているのだろうか?自分は、誰かに会っている時は楽しいと思うより、時間をなんとかしてやり過ごしているような気持ちになることが多い。終わったらどっと疲れるし。これもない自分を演じているせいなのだろうか。どうすればそれが充実した時間となるのだろうか。心からの善意なんてものは信じないとするなら、100%に気持ちが持っていけないことに悩む必要はないだろう。じゃ、何が必要なんだ?少しの労働、少しの孤独、少しの知識の更新

明日はまた仕事をするなら、何か実践してみても良いのではないか。半径3メートルを声が届く距離とするなら、今は仕事が一番近しい気がする。家も友達も近いようで遠い。身近な他人と言ったのは誰だった?

 

能と狂言

たまたま行ったらチケットを売ってたので買ってしまった前から3列目。

何かと気になったものには投資してみようと1人鑑賞。

家から自転車で行けるのもポイント。夜に電車使わないと帰って来れないところに行くのは、ちょっとマズイかと思うくらいの感染状況。

 

狂言は一度観た時に、言葉が聞き取れれば面白いとわかったものの、能については動きが無さすぎて、これを作った世阿弥(あってる?)は何を考えてたんだろうと思いながらの観てた。

 

演じる人と、楽器を演奏している人は興味深いものがあった。90歳にして今日の公演の一番違う次元に連れて行ってくれたのは野村万作さん。と鑑賞経験値のそう高くはない私は思った。演目のせいかもしてないけど、雑念から解放される所作。親子3代というまあ誰かが人を惹きつけると商魂逞しく企画した中、最も私の心を捉えたのはこのかただった。

期待して、というか目的だった野村萬斎さんはというと、疲れてる?なんだか顔に生気がない。皮膚が重力に引っ張られて下に落ちてるし、何といっても何か睡魔と闘っってるかのような顔の動き。もちろんセリフが入れば素晴らしいストレスのない素直に面白い合いの手が入るのだが、その顔は何?と思うくらいの生気のない、覇気のない、地顔。年齢が一番近いだけに、何か問題を抱えているのかと心配になる。

 

演奏の方々。どのような人生かはわからないけど、、頑張ってください

フワフワの石

 

「石って硬いだけじゃない。柔らかい石もあるんだって」

息子が先生から聞いてきた話。水銀も石なんだそうな。ドロドロしてるけど。

固定観念に囚われるなっていう授業かな。こうだと思っていることって、そんなに正しくないんだよって。

 

「僕のことをうまく使ってください」

完全に自分のスペックが相手(私)に理解されてると思ってるのかな?

全然わからないんだけどなあ。自己紹介とか、少ない情報だけで何ができるとかできないとかわかるのだろうか。今やらなきゃいけない業務に必要知識がほぼない中で、どんな特性をそこにマッチングさせとというのだろうか。

誰かと一緒に仕事をしようとする時、その組み合わせがうまくいくかどうかって、どうやって見極めるんだろう?勘にしても人間がどんなものかをそこそこ経験値でわかってないと、組み合わせることすらできないよね。

それを肩書きとか、過去の仕事で身につけたスペックだけのマッチングって上手くいかなさそう。そこにはベースとなる心の動かし方が入ってこなければならず、それは気質とか性格とか、人との関わり方の特徴みたいなものがあるんじゃないか。

その心の動かし方にしても、日々刻々とアップデートされていく。 R

いまさらだけど

はじめてブログにチャレンジ。

退職前に、長い長い会社員人生からどうやって脱皮できるかをもがく様子です。

やめたい辞めたいと思いながら、30年超会社員やっちゃったおかげで、仕事しない人生の過ごし方がよくわからない、定年間近の物語。

 

とはいえ、なかなか始められない。

 

まずは形からとiPad買って、どこにアカウント作るんじゃ〜って検索している間に、いろいろな方の「はじめての×××」的な記事をどんどん読むハメになり、これがブログか、この人たちはこうやって稼いでるのかと感心するばかり。確かに検索上位1P目に表示される記事しか読まない。案ずるより産むが易し。アカウント作った。家ではムリ〜。場所細胞が拒否する。ここはそんなことをする場所じゃない。ここじゃない。外へ出よう。

 

コロナ禍にも関わらず、コーヒーチェーン店で他者を感じながら時間をやり過ごす人たちに混じっていると、だんだん混乱してくる。皆、なぜここにいる?私もだけど。

 

こんな風にもがいているうちに、生きていることに何か得られるものがあるのかな。続けられるかな。不安というか、続かないダメな自分が囁いているというか。。。形から入ったんだから、元を取るつもりで進もう。